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2015年1月2日(金)子どもに会えない現実を生き延びる

離婚と子どもに会えない日々の中で、僕はアルコール依存症になってしまいましたね。

アルコール依存症はほんとうに気をつけなくてはいけないです。幸いにも、ブラックアウト(飲んでいたときの記憶がないほどの酩酊状態)までにはなりませんでしたが、昼間からアルコールを飲んだり、夜も毎日のように飲まなくてはいられなかったり、週に数日の休肝日さえも自分の意志でつくれなくなっていましたから、完全なアルコール依存症と言ってもいいでしょう。

離婚時に取り決めた面会の約束は守られず、クリスマスや子どもの誕生日にプレゼントを送っても、(まだ子どもが受け取り拒否をするならまだしも)母親が受け取りを拒否し、わざわざ送り返してくる。

小学校の帰りに会いに行っても、母親から僕の悪口を聞かされている子どもは身をよじるようにして僕を避けていこうとします。

そんな子どもに会えないという過酷な現実は、いとも簡単に、僕をアルコール依存症、自死、さらには相手への殺意願望までもたらしてしまいました。

こんなにもひどい現実を、いったいどうやって生きのびればいいのでしょうか—。

当時、僕は幸いにも友人がやっていたコウ・カウンセリング(再評価カウンセリング)に出会うことができました。お互いがカウンセラーとクライアントの時間を対等に分かち合って、話をしたり、泣いたり、笑ったり、怒ったりという感情を出すことで、過去の傷を癒していくというカウンセリングです(詳しいことはまたの機会に)。

それで僕の場合、とにかく泣きました。泣くことしかできませんでした。泣いて泣いて泣き尽くすと、何とかその日を生きていくことができるような、そんな日々がず〜っと続いていました。

すさまじいまでの怒りと憎しみに、枕をなんどもナイフで切りつけズタズタにしてしまいましたし、いくつわら人形をつくり、カッターで切り刻んだことでしょう(笑)。

自分も他人も傷つけることもなく、ひとりで、あるいはもうひとりのカウンセラーに見守られる中で、泣き叫び、憎しみや怒りをはきだすことは、アルコールで自分の躰をボロボロにするより、はるかに安全で安心な方法だったと、今では思うことができます。

ひとしきり泣いた後は、

「まだ居場所がわかっているだけでもいい」

「プレゼントだって、だまって捨てられるよりはまだ送り返される方がいい。ずっととっておいていつか会えるようになったら渡そう」

「昨日の学校帰りはすれ違いで会えなかったけど、今日は顔を見れただけでもよかった」

「子どもも自分も生きていれば、いつの日か会える日がくるよ」

と、現実を受け入れられる方へと心がほんの少しでも動くのでした。

おかげで、子どもに会えないだけでもじゅうぶんにひどい現実を、よりひどい状態(自死したり、子どもを奪い返したり、人を殺したり)、より複雑な状況にしなくてすんだのは、よかったなぁと思います。

2015年1月1日(木)その日のために、自分のために養育費を送る

新しい1年がまたスタートしましたね。

今年もよろしくお願いします。

子どもと会えないでいたときには、毎月、わずかな額ですが、収入のほぼ30%にあたる金額を、養育費として送金していました。

養育費と面会とはまったくの別もので、会えないから養育費を払わないというのは違うよなぁと思いつつも、さまざまな思いが心の中を巡っていました。

子どもと週に3〜4日過ごすことができれば、こんな養育費なんてそもそもいらないだろう。

子育てのためにかかった経費は、きれいに折半して、毎月、お互いの共同子育て口座に振り込めばいいだけのこと。

その上で、子どもはお互いの家を自由に行き来できるようにすればいい。

子育てという役割においては、お互いともプロフェッショナルに、どんな私情もはさむことなく妥協と協力を自らに課す、そんな思いでいたものです。

けれども現実はというと、会うことさえできないのですから、自分の中に大きな葛藤が生まれてきます。

でも会えないからといって、養育費を支払わないのは、相手と同じ土俵に上がってしまうようで、つまり子どもを自分の所有物かのような論理によりかかってしまうようで、イヤでした。

離婚後子どもと引き離されるのは、誘拐や拉致と同じことです。仮に誘拐だとしたら、身代金にあたるのが、養育費の支払いでしょうか。子どもを人質にとって暗に脅迫するというやり方です。

子どもを人質にとられているわけですから、全面的に争うわけにもいかないのですが、僕はもともと、争いごとは好きではないし、できるだけ避けて生きていきたいと思っている、気の小さな人間です。それで、少しずつですが、こう思うようになりました。

仮に誘拐だとしたら、まだ子どもの所在が確認できて生きているだけでもいいじゃない。子どもが生きていてくれるだけで、この養育費は支払う価値があるものじゃないか。この養育費がどんな使われ方をするのかわからないけど、それは僕の手の届かないどうにもならないこと。今は、自分が子どものためにできることをやろう、と。

会えないという現実を少しずつ受容できるようになると、養育費を送金するだけでも、子どものために何かしてあげられることがあってよかったと思うようになりました。もちろん、現実を受容することは、あきらめるということではありません。

生きていく上で、他人を変えることはほとんど不可能なものです。離婚した相手ならなおさらです。まだ社会を変革する方が可能性があります。自分が自死することなく現実を受け入れて生きのびるためには、自分を変えるしか道はなかったのだろうと、当時を振り返って思うのです。

結局、子どもと会えないまま、子どもが大学を卒業するまで養育費を送り続けました。元ツレアイが、お父さんから養育費をもらっていたことを子どもに伝えたかどうかはわかりませんが、そんなことはどうでもいいことです。

自分が自分として与えられた環境の中で、子どもをどう愛し、どうかかわろうとしたのかということが大事です。僕にとっては、それが今の自己受容につながっています。

たとえ今子どもに会えないとしても、いつか会えるかもしれないその日のために、養育費は自分のために送金しておくと、その日を迎えたとき、堂々と子どもに伝えることができるでしょうね。

2014年12月31日(水)年の瀬に

 今年は、例年になくハードな1年でした。人工呼吸器をつけた重い障害をもつツレアイが、腎結石で2回、気胸で3回、計5回も入院してしまったからです。

 その度に、僕も付き添いのために、病院に泊まり込みでした。病院という閉ざされた空間に2週間近くもいると、気分が滅入ってきます。たまに自宅に衣服や食料をとりにいくときの、外の空が広がる空間に身を置いたときの開放感は、心をす~っと軽くさせてくれたものです。
 自分が時間をかけてつくってきた環境ではあるのですが、男性でありながら、ツレアイの介助ができる環境にあるということは、よいことだと思っています。というのも、男性は歴史的に、介助(介護)はおろか、子育てからも遠いところに置かれて、お金を稼いでくる役割ばかりを押し付けられてきたからです。
 「家」制度が存続していたころには、離婚後、子どもに会えなくなるのは女性が圧倒的に多かったのですが、戦後、急速に「家」制度が崩壊し、核家族化に移行していくと、離婚後、子どもに会えなくなるのは男性がその多くを占めるようになってきました。子育てをめぐる、男性と女性の性別役割が、大きく影響している結果と言えるでしょう。
 婚姻中の子育てを、男性も女性も対等に分かち合うことが、当たり前の社会になれば、離婚後の共同子育ても当たり前の社会になるのではないかと思っています。まだまだ時間はかかるかもしれませんが、きっと実現不可能な社会ではないはずです。
 まぁ、そんなこんなで、しんどかった1年に、さようならできる今日の年の瀬は、正直うれしいです。新しい年よ、早くおいで、おいで、の気分です。
 でも、2年前の31日には、午後2時ころ、雪道のスリップで、交通事故を起こしてしまいました。新しい年を迎える午前0時を迎えるまで、まだまだ気が抜けませんね(笑)。
 みなさま、よいお年をお迎えください。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

2014年12月30日(火)会えなかった日々の習慣

今から約24年前に25歳で離婚を決意したときには、離婚後の共同子育てはあまりにもあたり前過ぎて、まさか子どもに会うことすらできなくなるなんて、夢にも思ってもいませんでした。

離婚後の何回かの面会の後、子どもが「お父さんと一緒に住む!」とお母さんに向かって言うと、「そんなのダメだよ!お父さんには会わせないよ」と元ツレアイはすかさず返す。それでも負けじと当時5歳にの子どもは「お母さんはお母さん、お父さんはお父さん、ぼくはぼくでしょ!」と叫びました。

親が制限さえしなければ、子どもは親の所有物ではないということを、子どもは子どもなりに直感的に分かっているんですよね。

ともあれ、共同子育ては元ツレアイの理解と同意があってはじめて可能になるわけで、自分ひとりがどんなに望んでもできるわけではないし、ましてや全面的に敵対していては、できるものもできないものです。

ぎりぎりのところで、最愛の子どもの親としての関係性をお互いに再構築していかなくてはなりません。その作業はときに大きな葛藤と痛みをともなうものだと思いますが、子どもへの愛を糧として乗り越えなくてはならないものなのでしょうね。

子どもと引き離され、会うことさえできない日々は、絶望につぐ絶望にどっぷりとつからなければならない日々です。逃れることのできない牢獄に入れられた日々です。その苦しみに比べれば、乗り越えられないものではないような気がします。

子どもが20歳になってから会えるようになったのですが、今でも、夜眠る前に書く日記には、「おやすみなさい」と子どもにむけて書いてしまいます。

子どもはもう30歳近くになるというのに、今は会おうと思えば会える状況にあるというのに、会えなかった当時の習慣はなかなかぬけないものなんですね(笑)。

2014年12月29日(月) 明石市の取り組みはすごいです

今年の4月からはじまっている明石市の離婚後の子どもの権利を守る取り組みを遅ればせながら、今日知りました。ほんとうにすごいですね。

 離婚届を受け取りにきた市民にもれなく、養育費の支払いや面会交流の方法などを記入できる合意書や養育プラン等の書類の配布を行っています。希望者には「子どもと親の交流ノート」も配布しています。こんなのは全国でも初めての画期的な取り組みですよね。県弁護士会や家庭裁判所、臨床心理士会、社会福祉士会など6機関と連携する「子ども養育支援ネットワーク」と称する連絡会議も発足させて、離婚後の子どもの養育支援を本格化させています。(詳しくは明石市のHPをどうぞ。)

泉市長さんは講演(親子断絶防止法全国連絡会のHPに掲載)で、「離婚のとき、お父さん、お母さんには弁護士がつくけれど、ほんとうに弁護士が必要なのは子どもなんです」という言葉には思わず拍手をしてしまいました。

 行政がやる気になればこんなこともできるんですね。全国の自治体に広がれば、と願いつつ、まずは自分が住む札幌市に実現させたいなと強く思いました。

 

2014年1月1日

子どもに会いたくて会いたくて、その想いだけで、子どもの学校の帰りに会いに行っていたのですが、会いに行ったのは、学校帰りだけではありませんでした。

友人を通して、子どもが放課後水泳を習いに行くようになったと聞けば、そのプールへ一般ビジターとして行ったり、中学生になり部活をするようになったら、運動場が見渡せるマンションの非常口階段に上がり、双眼鏡で子どもの姿を追っていました。

その当時は、学校の担任の先生も、親権のない親だからといって警戒することもなく、学校での子どもの様子を教えてくれましたし、時間割表をくれたり、教室に案内もしてくれました。

そこには、僕が日常的にみたり聞いたりすることのできない、子どもの学校生活の様子がかいま見られて、ひとときではあっても心が安らいだものです。そのときだけは、子どもとの距離がすこしでも縮まり、子どもの近くにいられたような気がしました。

会いにいくということは、けれども、とても胸が張り裂けんばかりの苦痛もともないました。

子どもは僕の姿を見るなり、走って逃げようとします。距離が近づいてくると早足で避けようとします。話しかけても片言の返事をする程度で、身をよじって「会いたくない」という表情をします。

子どもにとってみればもっともなことです。母親からは「お父さんはお前を捨てた」と言われ続けていて、父親に会っただなんて、口が裂けてもいえるような環境ではなかったのです。子どもはそんな母親のもと、生き延びなければならなかったのです。

しかし、理屈ではそうと分っていても、自分の全存在をかけて愛しているその子どもに拒否されるのですから、つらくてつらくてその心の痛みは、ナイフで心臓をえぐりとられるようなものでした。

どうしても会いたくて会いに行くのですが、子どもに会えるのはほんの数分。帰ってからその10倍の時間をかけて、ひとしきり泣かなければなりませんでした。

泣いて泣いて泣き尽くして、深い深い心の傷を癒して、また会いに行こう…、と思う日々でした。

男性は幼い頃から、「男の子なんだから」という理由で、感情表現を不当に抑制されて育てられます。けれども、ほんとうは泣き尽くすことで、心の傷は自然治癒され、また再び生きる力、愛する力を与えられるのです。

12月13日(金)

数ヶ月ぶりに、子どもと会っていろいろおしゃべりしながら、食事をごちそうしてあげました。子ども、と言っても28歳になるりっぱな男性です。

離婚により、5歳で離ればなれになり、きちんと会えるようになったのは、子どもが二十歳になる頃からでした。それ以来、数ヶ月ごとに、こうしてご飯をごちそうしてあげながら、近況を聞いたりしています。

仕事やスポーツのこと、彼女のことなど、ごくごく日常にありふれた話題ばかりです。それでも僕にとっては、20年もの年月、ここまでに至る長く苦しかった道のりを思うと、こうして体いっぱいに子どもの話をきける時間が、とても貴重で尊くてありがたくてたまりません。生きいくことをあきらめないでよかった、と思う瞬間です。

僕と子どもとは20歳しか年が離れていないので、少し自分の顔に似ている子どものことを、今では年の離れた弟のように思います。子どもにとっても、「気がついたら父親はいなくて」、学校帰りに会いにくるのが父親の姿だったようですから、僕のことを、「父親というほど親しくもないし、かと言って他人でもないし…」、「今では年の離れたお兄さん」のようだと言います。

「あの学校帰りに会いにこられるのは、子ども心にイヤだったなぁ」と彼は言います。

23年前の離婚のとき、願っていた離婚後の共同子育ては相手の強力な反対で実現せず、月に1回は会わせるという約束も守られず、家裁に調停を申し立てれば、「最後にはお子さんに、お父さんかお母さんのどちらかを選んでいただくことになります」と調停委員は言いました。そんな家裁に見切りをつけた僕は、とにかく学校帰りやプールの帰りなど、何でもいいから、子どもに直接会う、ということをやったのでした。学校の先生に時間割をもらい、週に数回以上は会いにいっていました。

子どもは、そのときのことをそう言ったのです。一緒に帰るお友達とのこと、同居する母親からは「お父ちゃんは、お前を捨てた」と言われていたのです。子どもにしてみれば、イヤで仕方なかったと思うのは、当り前のことです。

そんな彼に、「会うための方法が他になかったからねぇ。」と僕は笑いながら答えました。つまるところ、そこまでして会いにいっていた父親の姿を、彼自身がどう感じとりどう理解してもらうか…、それは、僕の手をはなれたところにある彼自身のことかもしれません。

僕は父親であることの愛情をそういう方法でしか伝えられませんでしたが、選択しうる方法の中で、もっともすばらしいことだったと今では確信しています。

人の子ども時代は、とても短く、1日1日が新しい出来事の連続です。その彼の子ども時代に、学校帰りのほんの一瞬であっても、父親である僕の姿を刻むことができたことがうれしいのです。