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2016年7月17日

2016年7月17日

 離婚後、子どもと会えなくなった当事者の多くは、自死を考えますよね。実際に自死してしまう人もいます。僕自身もそうでしたから、その時の絶望のどん底にいる精神状態はよく理解できます。
 子どもに会えなくなってからの数ヶ月はそのピークです。子どもとの絆は断ち切られ、心の傷からはどくどくと血が流れ出ています。その傷は1日1日を生き延びるごとに、出血する血の量が増えて、やがて少なくなっていき、1年間も生き延びることができれば、その傷に慣れてきます。傷が癒えるのではなく、傷があることに、そこから血が流れ続けていることに慣れていくのでしょうね。本能的かつ身体的な生き延びるための作業である、食べる、眠る、着る、住まう、排泄するといった作業と時間の流れがそうさせてくれるのかもしれません。
 僕には、離婚後子どもに会えなくなった友人や知人が何人もいるのですが、そのほとんどの人たちが、子どもに会うことを諦めているかのようでした。かつて僕は、そんな彼らをみて、「最愛の子どものことを、なぜあきらめられるのだろうか」と理解できない気持ちを持ち続けていました。
 けれども、ここ数年の間に、しかしそうではないのではないかと思うようになりました。「もう子どものことはあきらめた」と言うことでしか、生き延びられなかったのではないかと。そう思うようになったのです。深い深い悲しみのただ中にあって、その現実に真正面から向き合い、生き延びることは、誰にとってもつらいことです。そこで「もうあきらめたんだ」と自分に言い聞かせて生き延びるということも、人が生き延びるための大切な方法なのかなぁと思うようになりました。生き延びること、それこそがもっとも重要なことであって、「あきらめること」でその人が生き延びれればそれでいいじゃないかと。
 しかし、そんな彼/彼女らにしても、生活の中のさまざまなシーンで、ひきはなされた子どものことを思い出すはずです。公園で遊んでいる同じ年代の子どもをみたとき。子どもが好きだった歌がテレビから流れて来た時。そして、死の淵に立たされたとき、生き別れとなってしまった子どものことを思い出さないはずはないのです。それは僕も同じです。つまりは、あきらめられないからこそ、「もう子どものことはあきらめたよ」と言い、絶対に忘れられないからこそ、「もう子どものことは忘れたよ」と言って生き延びるしかないのではないかな。そんなふうに思えるようになりました。
 離婚後、子どもとひきはなされるという体験は、誘拐されて子どもを人質に取られたり、拉致されるのと同じような体験です。感情的には、死にたいとさえ思うどん底の苦しみと悲しみ、そして相手への強烈な怒りを抱かされる体験です。
 まずは当事者同士が助け合える関係、共感し合える関係、感情を聞き合える関係性づくりこそが大切ではないかなぁ。そこから、何とか今日1日を生き延びられる希望が生まれてくるのではないかなぁと思うのです。
 僕にとっては、他の当事者を支えさせてもらえることが、自分の体験を意味あるものにしてくれますし、自分が生き延びる糧ともなっています。これは当時者にしかできない大切な社会的な仕事です。

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