新しい1年がまたスタートしましたね。
今年もよろしくお願いします。
子どもと会えないでいたときには、毎月、わずかな額ですが、収入のほぼ30%にあたる金額を、養育費として送金していました。
養育費と面会とはまったくの別もので、会えないから養育費を払わないというのは違うよなぁと思いつつも、さまざまな思いが心の中を巡っていました。
子どもと週に3〜4日過ごすことができれば、こんな養育費なんてそもそもいらないだろう。
子育てのためにかかった経費は、きれいに折半して、毎月、お互いの共同子育て口座に振り込めばいいだけのこと。
その上で、子どもはお互いの家を自由に行き来できるようにすればいい。
子育てという役割においては、お互いともプロフェッショナルに、どんな私情もはさむことなく妥協と協力を自らに課す、そんな思いでいたものです。
けれども現実はというと、会うことさえできないのですから、自分の中に大きな葛藤が生まれてきます。
でも会えないからといって、養育費を支払わないのは、相手と同じ土俵に上がってしまうようで、つまり子どもを自分の所有物かのような論理によりかかってしまうようで、イヤでした。
離婚後子どもと引き離されるのは、誘拐や拉致と同じことです。仮に誘拐だとしたら、身代金にあたるのが、養育費の支払いでしょうか。子どもを人質にとって暗に脅迫するというやり方です。
子どもを人質にとられているわけですから、全面的に争うわけにもいかないのですが、僕はもともと、争いごとは好きではないし、できるだけ避けて生きていきたいと思っている、気の小さな人間です。それで、少しずつですが、こう思うようになりました。
仮に誘拐だとしたら、まだ子どもの所在が確認できて生きているだけでもいいじゃない。子どもが生きていてくれるだけで、この養育費は支払う価値があるものじゃないか。この養育費がどんな使われ方をするのかわからないけど、それは僕の手の届かないどうにもならないこと。今は、自分が子どものためにできることをやろう、と。
会えないという現実を少しずつ受容できるようになると、養育費を送金するだけでも、子どものために何かしてあげられることがあってよかったと思うようになりました。もちろん、現実を受容することは、あきらめるということではありません。
生きていく上で、他人を変えることはほとんど不可能なものです。離婚した相手ならなおさらです。まだ社会を変革する方が可能性があります。自分が自死することなく現実を受け入れて生きのびるためには、自分を変えるしか道はなかったのだろうと、当時を振り返って思うのです。
結局、子どもと会えないまま、子どもが大学を卒業するまで養育費を送り続けました。元ツレアイが、お父さんから養育費をもらっていたことを子どもに伝えたかどうかはわかりませんが、そんなことはどうでもいいことです。
自分が自分として与えられた環境の中で、子どもをどう愛し、どうかかわろうとしたのかということが大事です。僕にとっては、それが今の自己受容につながっています。
たとえ今子どもに会えないとしても、いつか会えるかもしれないその日のために、養育費は自分のために送金しておくと、その日を迎えたとき、堂々と子どもに伝えることができるでしょうね。
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